平凡が一番難しい

小さな会社を経営していて感じることを、ぼそぼそと書いています。

『障害者』っていう呼び方に違和感しかない。

就労継続支援という事業は、主に障害者手帳療育手帳を所持している方の就労訓練施設なので、当然ながら ”障害者” が集まる場所となります。

 

ただ、ウチでは手帳を持っていてもサビ管として一般雇用してるので、その ”境界線” について考える事もしばしば。

 

そんな中、いつも違和感として感じていたのが ”障害者” という呼称です。

 

この呼称自体、過去に ”害” という字が用いられていることから、別の呼び方を模索したり、 ”碍” という字を用いてみたりしていますが、未だ着地点は見えていません。

 

そんな中で、別に提案という訳では無いのですが、僕としてしっくり来ているのが『特性』という言葉です。

 

ネットで調べると、特性とは『特有の性質』『物質』とあり、いわゆる ”障害” とは正にこれではないかと思っています。

 

そもそも、『障害者』と『健常者』に分けてる事にも違和感を持っていて、『誰でも何かしらの特性を持っている』事を前提とすべきだと思っています。

 

例えば、身体特性とか、心の(精神)特性、知的特性という風に置換してみるとどうでしょう。

先天特性とも後天特性とも言えるでしょう。

 

僕も40歳を過ぎてから様々な変化を感じる事がありますが、視力の低下も現代の言葉で表現すれば ”後天的な障害” の一種となりますが、加齢に伴う ”特有の性質” となれば、後天特性でも良いのではないでしょうか?

 

今の所、運動音痴と言われる人や、ク〇が付く程真面目な人は、障害者認定されません。

 

でも、運動音痴は学校で冷やかされる事もあるし、ク〇が付く程真面目な人は人との衝突が多くなる事もありますよね。

 

誤解を恐れずに書くと、その ”障害” が社会の中で生活する人々の ”許容範囲内” であるかが、障害者となるかどうかの線引きの様な気がしてます。

 

バリアフリーユニバーサルデザインという概念が無かった頃は、身体に特性の有る方々が社会から排除され、施設に入所してきた歴史がありますが、それも一般社会のその他大勢の許容範囲外だったからと考える事ができるでしょう。

 

多少こだわりが強かったり、勉強が苦手だった人も、ある程度の年齢になれば社会に投げ出されます。

でも、その人たちは障害者認定されていませんから、健常者として扱われて『何でこれが出来ないんだ!!』と責められたりする訳です。

 

しかし、始めから『みんな何かしらの特性がある』事を前提にしちゃえば、障害者と健常者の分別が無くなり、皆が個人の特性を理解する事で接しやすくなったり、特性を生かした仕事や学習方法を見つけることだって可能になるのでは?と思っています。

 

 

以前、『高校まで義務教育化』という記事を書きましたが、

 

sic.hatenablog.com

個人の特性を把握したり、その特性を伸ばす期間が物凄く重要だと思っていて、それは高校まで義務教育化することでゆっくりと育てる事が可能になるとも思います。

 

”障害” という言葉が ”特性” という言葉に置き換わるだけでなく、特性は皆にある事が前提となる社会はどんなものなのか?

 

少し想像してみるのも良いかも知れませんね。