平凡が一番難しい

小さな会社を経営していて感じることを、ぼそぼそと書いています。

あいちトリエンナーレでの「○○の自由」について余計なことを言ってみる

日本では様々な「権利」が憲法で保障されています。

 

代表的な例えで言えば、

自由権

①身体の自由

②精神の自由

③経済活動の自由

等がありますが、その他にも細かく様々な自由が認められています。

 

この〇〇の自由に関しては、我々が人間らしく生きる為に必要な保障だと実感していますが、僕個人的には「権利の濫用では?」と思う事もしばしば。

 

特に

①知る権利

報道の自由

表現の自由

に関しては、個人での表現を超えている様な場合が多々あると感じています。

 

知る権利に関しても、最近の報道を見ていても本当に知りたい情報が正確に伝わってきてるとは到底思えません。

視聴率を基準にした上層部の判断によって現場は動き、より視聴者の興味を引く内容をいかに面白おかしく伝えるかに終始していて、時にはジャーナリズムの名のもとに個人のプライバシーを無視するような報道もあります。

 

その時にも表現の自由や国民の知る権利というものを振りかざすのですが、

「正直そんな事知りたい訳じゃない」という内容も一方的な報道により耳にしてしまいます。

 

今回のあいちトリエンナーレでの「平和の少女像」の件もそうですが、表現の自由は保障されて当然です。何より憲法で保障されていますから。

 

でも、その表現方法には利害がついていて、行政がそれを止めれば「検閲」と言い、自由が侵されたと言います。

 

しかし、それは本当に権利侵害なのでしょうか?

 

表現する側も日本国民であり、その事で保障されている権利であるならば、日本国民としてその他の日本国民の利益も考える必要があるのではないでしょうか?

 

「権利を主張するなら義務を果たせ」という言葉がありますが、これについては「どこまでの義務を果たせば権利を主張できるの?」という疑問が付いてくるので全てを受け入れる事は出来ないと思いますが、「自分が今、何によって守られているのか」を考えるだけでも良いと思います。

 

内閣改造の度に、マスコミは野党と一緒になって「〇〇内閣」みたいなネーミングを付けたがります。

 

正直、本質を報道で知りたいと思ってる(というより報道の以外に知る手段がない)僕からするとそういうネーミングとかどうでもよくて、何なら逆に報道に対する信頼が薄れています。

 

今回の名古屋での「表現の不自由展・その後」が中止を発表しましたが、これが ‟脅迫” による中止というのは残念です。

 

〇〇の自由を主張する事自体に反対は全くありません。

 

なぜなら憲法で保障されているからです。

 

であるならば、主張する方はそうでない方の自由や利益も守りましょうよと。

その範囲でやりましょうよというのが僕の考えです。

 

それを侵害や制限というならそうでしょう。

でないと、誰かの権利が侵されます。

 

人数が多いとか少ないとかの問題でも無いのでしょうが、少数の権利主張で大多数の権利侵害が起こるのならばそれは違うと思いますし、他人の権利を侵害しなければ主張できない権利は権利で無いとも思います。