『差別が目的ではない』のであれば、それが結果として ”差別” となっても『問題無し』って言ってるのと同じですよね。
そもそもですけど、
『同性愛は心の問題』として、”問題扱い” してる事自体が差別的思想であって、それが差別なので問題だと思うんですね。
神道もキリスト教も、つまるところは ”神” が信仰の対象なので、僕はキリスト教の信者が神道の講演をする事に違和感はありませんが、内容に関しては違和感しかありませんよね。
例えば、トランスジェンダーに関わる ”問題例” として
「いま性的少数者の話題がたくさん上がっていますよね。海外ではトランス女性(男性として生を受けた、性自認が女性であるトランスジェンダーのこと)と呼ばれる方々がスポーツをして、いい記録をとって、『普通の女性が不公平じゃないか』という声も上がっています。問題が起こっているならば、理解を深める必要があります。そこで会合を開きました」
公平性に欠ける問題があるとの指摘で、その部分の『理解を深める必要がある』ならば『新たなルールをどうするべきか』を議論するべきじゃないでしょうか?
そして、末尾には末恐ろしい発言がありました。
「私たちも何が差別なのか、わからないところがあります。『差別は許されない』という法律があります。しかし何が差別で、何が差別でないのか。それを理解していないと、本人として差別のつもりのないことですら、差別として捉えられるかもしれない。“何が差別なのか”を明らかにすることで、トラブルに巻き込まれることもなくなるのかなと思います」
と。
ええええーーーーーーーーーーーーーーー
何が差別なのか分からない所があるって、これマジですかーーーーーーーーーーって思いません?
あのね、LGBTをそもそも ”問題” と捉えてる事自体が差別であり、”回復治療や信仰によって変化” させようとしてること自体が差別だと思うんですけど。。
『性的少数者の問題をずっと研究されてて』って、この発言もヤバいですよね。
闇だなー。
日本って、『男としてこうあるべき』『女としてこうあるべき』ってのが根深すぎる。
ちょっと話はそれますが、発達障害のある三男坊君から、『ひまわり(支援)学級に行きたい』との申し入れがあり、とても嬉しくなりました。
我々は本人の意思を尊重したくて、本人からの申し出に応じて動くという姿勢でいるからです。
でも、ひと昔前なら『普通学級で進級させたい』と考える親が多かったのも事実。
何なら、明らかに発達に遅れがあるにも関わらず、それに目を背けて否定する親もいました。
これは、”障害者” に対する間違った ”イメージ” が引き起こしていました。
純血を ”美徳” とする島国根性。
”らしさ” を求める大人のエゴ。
”こうあるべき” から脱却できない封建的閉鎖社会。
ハッキリ言って、どうでも良い事ばかりにこだわってますよねー。
あーあ、早く世捨て人になりたい(笑)