平凡が一番難しい

小さな会社を経営していて感じることを、ぼそぼそと書いています。

根深い同和問題。新たな形も。

news.yahoo.co.jp

 

今ではネットを使った新たな形で広がっている事に驚きですし、虚しさを感じます。

 

 

 

僕も部落差別については身近に感じた事がある一人なのですが、それは高校生になって新たにできた友人からの ”告白” でした。

 

 

 

サッカーで挫折を味わった僕は、高校進学時から部活に所属せずにアルバイトに明け暮れていましたが、バイトが休みの日にたまたまクラスメイトから『一緒に帰ろうや!』と声を掛けて貰ったのが切っ掛けで、その彼とは週に1~2回程度、一緒に帰る関係になりました。

 

 

何度か帰る内に、彼の自宅が学校とウチの中間という事が分かり、『熱いけん、ちょっとお前んちで休憩させてよ』と何度かお願いしましたが、なかなかいい返事が返ってきません。

 

ハッキリとした理由も聞けないまま断られ続けていましたが、それでも諦めずに何度かお願いしていた時、ようやく彼が重い口調で話し始めます。

 

 

『俺んち、部落出身者が住む集合住宅なんやけど、良い?』と。

 

 

 

僕は、正直に言うと色んな意味で驚きました。

 

 

 

小学校で学んだ同和教育は、既に過去の事だと思っていましたが、とても身近に悩む人が居たんです。

 

 

 

もちろんと言いますか、それが彼との付き合いをやめる理由には全く当たりませんから、そこからは何度も彼の自宅に招いて貰いました。

 

 

彼は、元祖音ゲーとも言える『ビートマニア』の上級者で、教えて貰ううちに僕も中級者レベルまで上達したのを覚えています。

 

 

そんな、中級レベルまで腕が上がる程通っていた僕に、彼から差別に関する話を聞く事ができました。

 

 

彼の住む市営住宅は、先程も書いた様に同じ地区の出身者が優先的に入居していますが、就職や結婚の際に住所を書くだけで ”部落出身者” である事と紐付けされる様で、彼もアルバイトの面接時にその事が理由で落とされた経験があったのです。

 

 

当時はネットなどありませんから、受け継がれた情報が頼りの時代であっても、そうやって ”引き継がれてる” 事に驚きました。

 

 

 

僕自身も、同和教育を受けてる時にクラスメイトの一人が ”寝た子を起こすな” 論の話をしていた事を思い出し、彼に思い切って聞いてみました。

 

 

同和教育ってどう思う? 部落差別を知らない人が、知る機会になってるけど』と。

 

 

彼の答えは、『無くならない限り続けるべきで、絶対に駄目だという事を教えて欲しい』と。

 

 

 

僕は、深く理解しました。

 

 

差別の無い世の中が理想なんですよね。

 

 

でも、現代社会には部落差別以外の差別も沢山存在していて、ネットの普及で新たな差別も生まれています。

 

 

そんな時代にあって、『差別の無い世の中』は理想論でしか無いかも知れませんが、『差別は絶対に駄目なんだ』との考え方を徹底して根付かせる事が大事なんだと思います。

 

 

人間って、『自分より苦しい人』を探して優越感を感じたり、『自分より裕福な人』を見ては羨んだりするものです。

 

 

でも、”幸せでありたい” と思う感情は正しいと思うのですが、その幸せ自体が ”相対的” な事であってはいけないという事に気付かなければいけないと思います。

 

『誰か』と比べた幸せではなく、『自分』が幸せと感じることができれば、少しは差別が減るのかなー?とも考えたりします。

 

 

 

やっぱり、差別の根源って『幸福度の低さ』だと思うんです。

 

 

今の生活や将来に対する不安や不満、経済的に裕福な家庭とそうで無い家庭など、それぞれが感じる ”差” が、人の心を隔てて ”別” となり、”差別” となってる気がします。

 

 

これって、政治の役割が大きいですよね。

 

 

実際、被差別部落を作ったのも時の政治権力者です。

 

 

であるなら、これを無くす努力をするのも政治の役割ではないでしょうか。

 

 

参議院選挙の争点を、未だに社会保障年金問題で争ってる候補者もいますけど、投票に足繫く通う高齢者ばかりに目を向けずに、差別を生んでしまう格差を何とかして貰いたいものです。